「囲碁(という競技)」が好きなのか、そこに関わる「人間」が好きなのか。
こんにちは、カイトです。
僕はそれなりに長く囲碁を続けてきた。
10代半ば頃まで囲碁の棋士になるために修行していたぼくは、棋士の夢を諦めてからもアマチュアとして大会への出場を続けていた。
アマ強豪ひしめく全国大会でそれなりの結果(人にいえばちょっと驚かれるくらいの結果)を出すほどには、
20年余りの人生における少なくない割合の時間を、囲碁というゲームに割いてきた。
それだけ長く続けてきたということは、さぞ囲碁が好きなんだろうな、とあなたは思うかもしれない。
ぼくも、他人から同じような話を聞けば、同様の感想をもつだろう。
どんだけ囲碁好きなんですか。その情熱リスペクトします、とでも。冗談ではなく。
しかし、上記のプロセスは、あくまでぼくと囲碁との関わりの軌跡のなかの、いわば「表面」に過ぎない。
自分のことだから、嫌になるほどわかる。
行為の裏側にあった目的や、感情を深掘りすれば、自分に向けてそんな言葉は出てこない。
実際のところ、ぼくが囲碁を好きであるか問われれば、素直に「イエス」と答えることはとてもできない。
ここ半年ほどは対局も練習もしていない。小学生の頃に始めてから、ゆうに15年以上続けてきた囲碁から、今は意識的に距離を置いている。
というより、やってもあまり楽しくない→当然の帰結としてやらなくなっている、
というのが正直なところだ。
もっと遡るなら、10代半ばで棋士になるのを諦めた時点で、囲碁という「競技」に対する情熱の大部分は冷めていたかもしれない。あるいは、もっと以前に。
それでも、アマチュアとして続けてきたのはなぜだろう?
それは、囲碁を通じた「人」との関わりが楽しかったからに他ならない。
囲碁の世界には、体育会系部活のような年齢による無条件の上下関係はなく、実力がある者には誰であろうと一定の敬意が払われる。
コミュニケーションが不得意で、他に特技もあまりなかったぼくは、大会で勝利して得られる他者からの承認、研究会などを通した他者との交流を求め、アマチュアとして囲碁を続けていた。
囲碁というゲームを追究し、「勝敗を競う」ためではなく。
囲碁に関わる「他者との交流」を目的として。
いわば囲碁という特技を、社会と関わるツールとして利用していたのだ。
別に、その姿勢が間違いだとはいわない。
競技の面白さと、それをプレーする人間の魅力の多寡は密接に関連する。
仲間とワイワイ真剣にやるからこそ楽しい、仲間が頑張っているから自分も思わず熱くなって取り組んでしまう。競技を通じた人との出会いが楽しい。
趣味に向かうモチベーションの割合の多くは「他者」が占める。
ぼくはこの点を長らく勘違いしていた。
話が混沌としてきたので、今回はこの辺で。
読んでくださりありがとうございました。