「ただの作業」から得られる承認で満足してはいけない
他人から見ればとても創造的で高度なことをやっているように見えても、
本人からすれば、ただ慣れた行為をオートパイロットでこなしているだけということがある。
頭をフル回転させ、神経をすり減らし、失敗のリスクを負って何かを行うことを「挑戦」と呼ぶ。
頭を使わずとも慣れだけでこなせて、神経も使わず、失敗の可能性もほぼないような行為を「作業」と呼ぶ。
高校生のころの自分にとって、囲碁の地区大会で勝ち上がるという行為はそれに当たった。
当時はここまで明確に言語化して意識してはいなかったが。
挑戦は人に新しい世界をみせ、成長に繋がる一方、
作業の繰り返しはただの停滞だ。
しかし、ただの作業も、明確な結果を伴っていれば他者の承認を得られるものだ。
囲碁の場合、地区大会で勝ち進んで全国大会へ進出したとなれば、確かに字面の勢いだけはいい。
しかし、私は碁に勝つことそれ自体に大きな意味を見出していたわけではない。
それゆえ、勝つために自身の技術を向上させる特別な努力をしていたわけではない。
ただ、それまでの人生で囲碁にかけてきた時間が人よりーーただ一地方の人々と比べればーー多かったのだ。
それだけで勝ててしまう。それだけで、ちょっと承認欲求を満たせてしまう。
他の大半の参加者とは違い、囲碁というゲームへの情熱は冷めていたというのに。
私はそんなイージーな心地よさに安住し、新しい世界を広げるため使うべき十代のエネルギーを、ただの作業に費やしてしまっていた。
笑ってしまう。
自分に自信がなかったことも、狭い世界に閉じこもるままだった要因だ。
それにしても頂けない。