全ての楽しさの源泉はコミュニケーションだと思う。 〜院生をやめた頃の話
こんにちは、カイトです。
ぼくはそれなりに多趣味で、人生の時間足りないなと思ってしまうタイプの人間です。
囲碁や音楽、アニメ、最近だと筋トレやボルダリングなど、割と見境なく手を出して生きてきました。
さて、最近ふと「趣味の原動力は他者とのコミュニケーションなんじゃね?」と考えたのでメモしておきます。
きっかけは、僕がこれまでの人生で最も長く、深くハマった趣味である囲碁の棋士修業時代のある経験を思い出したことです。
僕は小学生の半ばごろから囲碁にハマり、卒業するころにプロを目指して上京しました。一日中飽きもせず碁盤の前に座って、ひたすら練習、練習の日々。
サボって遊んじゃったこともたくさんありますが、今振り返っても、よくあれだけ一つのことを続けられたものだと思います。
しかし、ある時期にふと、一気にモチベーションが冷めてしまったのです。
それは、院生を辞めるちょうど1年前くらいのこと。
モチベーションがなくなってからの1年は実質的に惰性の日々なのですが、当時のぼくは気づいてなかったんですよね。
碁盤の前に座っても、やる気が湧いてこない。集中力が続かない。
囲碁の勉強は、一定レベルを超えてくると量より質が大事になります。こんな状態では勉強が身につくこともなく、院生対局の成績も一向に伸びず。
そんなうだつの上がらない状態になり、現状脱出の術を見つけることもできないまま、ズルズルと日々を過ごしてしまっていました。
さて、当時のぼくはなぜ唐突にモチベーションを失ってしまったのか?
囲碁を楽しみ、情熱を持って取り組めていた時期と、何が変わったのか?
現時点での結論をいうと、それは「囲碁を通じた"他者コミュニケーション"を失ってしまったから」です。
囲碁に限らず、趣味の楽しさというのは2種類あるもの。
1. 趣味そのものの楽しさ
2. 趣味を通じた人とのコミュニケーションの楽しさ。
思えばぼくが囲碁と出会い、楽しく続けてこられたのは、囲碁を通した面白い友人との出会いがあったからなんですよね。
小学校時代に通っていた囲碁教室には、囲碁を打つためというより、友達と遊びに行くような感覚の方が強かったような気さえします。
やや極端かもしれませんが、ぼくが囲碁に感じた楽しさというのは、実は後者の割合の方がずっと大きかったのです。
棋士を目指すほどにのめり込んでいましたが、囲碁というゲームそのものへの才能(情熱)は、それほどなかったのかもしれません。
モチベーションを失った当時のぼくを振り返ると、相当に精神をおかしくしており、誰ともろくに口をきいていませんでした。
友達もおらず、ひとり黙々と勉強し、対局する毎日。
「修行とは孤独なもの」などと、漫画の主人公のような気取った考えもあったかもしれません。(現実の強者はだいたいコミュ充というのに‥‥‥中二病‥‥‥。)
そんな孤独な日々の中で、モチベーションというエンジンが徐々に減っていき、ついにはガス欠を起こしてしまいました。
当たり前ですね。仲間とのコミュニケーションがあってこそ楽しかったのに、それを自らバッサリ切り捨てていたのですから。