「自意識過剰」という名の友人
こんにちは、カイトです。
人からどう見られているのか気になって仕方がない。
そんな状態をざっくり「自意識過剰」と呼ぶ。
この感覚は10代の頃から当たり前にぼくのそばにあって、時にぼくを悩ませたり、悩ませたり、悩ませたりしてきた。
今の自分は変な顔をしていないだろうか、
カフェで向かいの席に座るあの人はぼくがさっきコーヒーをこぼしたところを見て笑っていたのではないか、
さっきすれ違った人はぼくのファッションをダサいと思ったのではないか。
体調にもよるが、こんな事を考えだすと止まらなくなって、頭痛など体調に異常をきたすこともしばしば。高校時代はこれで学校を休んだこともある。
はたからから見れば、相当ヤバイだろう。
そんな困った友人「自意識過剰」くんと長らく付き合いを続けてきて、悪いことばかりだったかというと、意外とそういうわけでもない。
・まず、ファッションを好きになれたのは、間違いなく自意識過剰のおかげだ。
当然だ。人から見られることの意識なしに、ファッションという遊びは成立しない。
・また、人目を気にするということは、意識的にせよ無意識にせよ、自分自身が注意深く他者を観察していることの裏返しとも言える。
‥‥‥でも、これが役に立ったことはそんなにないかな。
・また、小説や映画などを観ていて登場人物の心の動きを読み取り、感情移入できるのも、自意識過剰になってしまうような繊細さをぼくが持っているからと言える。
ぼくが外交的な性格に生まれ、自分のも他人の心の動きにもそれほど気を払わず生きてきたのなら、これらのカルチャーに興味を持つことはなく、その奥深く、エキサイティングな創作の世界を知ることもなかったかもしれない。
以上にざっと上げたが、自意識過剰と付き合う中で得られたものも確かにあるのだ。
自意識過剰は思考のクセの一つで、「悪」と断罪するようなものではない。
他者コミュニケーションで悩むにつけ、外交的な性格に憧れることもままあるが、しかし内向的で自意識過剰な人間は社交性を身につけられないかというと、そんなことはない。
社交性は、知識と経験で磨ける技術だそうだ。
「自意識過剰」は性格であり。染み付いた思考のクセだ。
腐れ縁が深く根を張りすぎ、今さら絶縁しようがない友人みたいなものだ。
だったら、そいつとうまく付き合いつつ、ときに助けさえ借りながら、前進のために力を傾けるのが人生ってものだろう。友人を自分の人生の言い訳に使うわけにはいかない。
まとまりのないメモ。ゆえにメモ。今日はこの辺で。
読んでくださり、ありがとうございました。