アローンな日記

孤独を極めし20代男が、コミュニケーションを克服せんともがく姿を記すブログです。

何のためにそれをするのか?根本の目的を追究しろと自分にツッコミ続けたい。

こんにちは、カイトです。

 

1記事15分の思考メモというのが主目的の本ブログ、未だに時間制限を守れた試しがございませぬ。

 

何をしていても、時間という財産は目減りし続けている

 

これといった仕事をしていない最近は、日々の時間にかなり余裕を持った生活をしている。一日の時間をどう使うも、自分で決められる。

 

ただ、それは仕事などである時間に何かを行う「義務」がないというだけの話。

働いていても、遊んでいても、人生の時間は平等にすり減り続けている

 

30代以下の若者の平均寿命100年(うろ覚え)をぼくに当てはめるとして、

 

1日(24時間) ×  1年(365日) × 100年 = 87万6000時間が、ぼくが持って生まれてきた時間という財産の総量。

 

時間というのは、人生で唯一取り返しのきかない財産だ。

最高に充実した1日も、無為に終わった1日も、24時間という時間の消費という点で同じ。

 

人生がそんな24時間の積み重ねで形成されるとするなら、一分一秒という時間をいかに充実したものにするかが、人生の幸福度を左右すると言えるだろう。

 

人生の時間をより幸福なものにするには?

 

そして日々の時間の充実度とは、何を、どんな目的で、誰と、どれだけ熱中(=集中)して行うかが決定するといっていい。

 

今回メモっておきたいのはこのうち「どんな目的で?」というポイント。

 

僕は映像作品や小説が好きだ。

趣味の時間にこれらを楽しむときにいちいち「目的」なんて考えないわけだが、それはこれらに触れる際の「目的」と、僕の人生のコアとなる価値観が深く結びついているからで、絶対に目的はあるわけだ。

 

社会で生きる以上、好きではないけどやるべきことをする事はいくらでもあるが、「イヤーもう、この仕事ほんと嫌!いやいや!」なんて思いながら働く時間をすごすのは、できるだけ避けたい。

そんなのは学生時代の工場バイトで一生分お腹いっぱいです。

 

しかし、そのために好きじゃない物事自体を避けるというのはむろん現実的な選択肢ではない。

引きこもるしか無くなるがな。

 

ではどうするか?

自分のコアとなる価値観に、その物事を可能な限り結びつけて取り組むのだ。

 

これはDaiGo氏のニコニコチャンネルで得た思考法だが、非常に感銘を受けた。

 

とっくに15分経ったので、今日はこの辺で。

 

読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

 

低俗なワイドショーの陰に隠れる、本当に面白いテレビ番組たち

こんにちは、カイトです。

 

現代の30代以下の大半の若者にとって、「テレビがつまらない」というのはもはや常識に近い共通認識であると思う。

 

20代のぼくももちろんそう感じる一人である。

 

特にひどいのはワイドショーやニュース番組ではないだろうか。

 

ワイドショーでよく取り上げられるのは、下らない芸能人の不倫やらのスキャンダル。

当事者間で解決するべき問題に、「大御所」などと呼ばれる大の大人が、そんな下世話な話題に上から目線で偉そうにコメントし、断罪していくさまを茶番と言わずしてなんとするか。

 

中立的な立場で、国民にとっていま本当に重要な情報を提供することが本分であるはずのニュース番組さえ、政治家や芸能人の揚げ足取りのような報道にばかり時間を割く(断罪者気取りの上からコメントはここでもデフォルト装備)。

 

そして、こうした下世話な話題を好む視聴者の興味がまた新たな「ネタ」に移るまで、同じような話題がときに数ヶ月にもわたってえんえんと垂れ流され続ける。

 

急速な発展を続けるIT技術ブロックチェーンとかね)や緊迫する国際情勢など、国民の生活にとって1億倍重要な本物のニュースはいくらでもあるのに、報道しない。

 

明らかに情報メディアとしての役割を放棄している。

 

まあ、そのインスタントな話題で馬鹿な大衆からの視聴率奪取に勤しんできた怠慢のツケが、昨今の「TVブランド(笑)」の凋落という、わかりやすい形をとって回ってきたわけだが。

 

散々に言ってしまったが、一方でぼくは、テレビ番組が全てダメとは全く思わない。

 

情熱大陸」や「ガイアの夜明け」、「カンブリア宮殿」などのドキュメント系番組はいつ見ても面白い発見があるし、「世界の果てまでイッテQ」は大好きだ。

 

他にも、本当に面白くてタメになるテレビ番組やドラマはたくさんある。

 

しかし、それら本当に優れた番組が前出したようなゴミ番組の陰に隠れてしまっているのが、「テレビはつまらない」という風潮の実態なのだろう。

 

テレビ産業はこの先も縮小していくしかないが、これら本当に良質な番組を作り続けることはやめないで欲しいもの。そして、それらを若者に届ける努力をすれば、わずかでも寿命は伸びるのでは。いや、無理だろうけど。

 

個人的には、日テレなどはどうしようもないワイドショーを全部潰し、イモトアヤコを月に送ればいいのではと本気で思っている。

 

 

 

 

 

「自意識過剰」という名の友人

こんにちは、カイトです。

 

人からどう見られているのか気になって仕方がない。

そんな状態をざっくり「自意識過剰」と呼ぶ。

 

この感覚は10代の頃から当たり前にぼくのそばにあって、時にぼくを悩ませたり、悩ませたり悩ませたりしてきた。

 

今の自分は変な顔をしていないだろうか、

カフェで向かいの席に座るあの人はぼくがさっきコーヒーをこぼしたところを見て笑っていたのではないか、

さっきすれ違った人はぼくのファッションをダサいと思ったのではないか。

 

体調にもよるが、こんな事を考えだすと止まらなくなって、頭痛など体調に異常をきたすこともしばしば。高校時代はこれで学校を休んだこともある。

 

はたからから見れば、相当ヤバイだろう。

 

そんな困った友人「自意識過剰」くんと長らく付き合いを続けてきて、悪いことばかりだったかというと、意外とそういうわけでもない。

 

・まず、ファッションを好きになれたのは、間違いなく自意識過剰のおかげだ。

当然だ。人から見られることの意識なしに、ファッションという遊びは成立しない。

 

・また、人目を気にするということは、意識的にせよ無意識にせよ、自分自身が注意深く他者を観察していることの裏返しとも言える

‥‥‥でも、これが役に立ったことはそんなにないかな。

 

・また、小説や映画などを観ていて登場人物の心の動きを読み取り、感情移入できるのも、自意識過剰になってしまうような繊細さをぼくが持っているからと言える。

 

ぼくが外交的な性格に生まれ、自分のも他人の心の動きにもそれほど気を払わず生きてきたのなら、これらのカルチャーに興味を持つことはなく、その奥深く、エキサイティングな創作の世界を知ることもなかったかもしれない。

 

以上にざっと上げたが、自意識過剰と付き合う中で得られたものも確かにあるのだ。

 

自意識過剰は思考のクセの一つで、「悪」と断罪するようなものではない。

 

他者コミュニケーションで悩むにつけ、外交的な性格に憧れることもままあるが、しかし内向的で自意識過剰な人間は社交性を身につけられないかというと、そんなことはない

 

社交性は、知識と経験で磨ける技術だそうだ。

 

「自意識過剰」は性格であり。染み付いた思考のクセだ。

腐れ縁が深く根を張りすぎ、今さら絶縁しようがない友人みたいなものだ。

 

だったら、そいつとうまく付き合いつつ、ときに助けさえ借りながら、前進のために力を傾けるのが人生ってものだろう。友人を自分の人生の言い訳に使うわけにはいかない。

 

まとまりのないメモ。ゆえにメモ。今日はこの辺で。

 

読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 

「囲碁(という競技)」が好きなのか、そこに関わる「人間」が好きなのか。

こんにちは、カイトです。

 

僕はそれなりに長く囲碁を続けてきた。

 

10代半ば頃まで囲碁棋士になるために修行していたぼくは、棋士の夢を諦めてからもアマチュアとして大会への出場を続けていた。

アマ強豪ひしめく全国大会でそれなりの結果(人にいえばちょっと驚かれるくらいの結果)を出すほどには、

20年余りの人生における少なくない割合の時間を、囲碁というゲームに割いてきた。

 

それだけ長く続けてきたということは、さぞ囲碁が好きなんだろうな、とあなたは思うかもしれない。

ぼくも、他人から同じような話を聞けば、同様の感想をもつだろう。

 

どんだけ囲碁好きなんですか。その情熱リスペクトします、とでも。冗談ではなく。

 

しかし、上記のプロセスは、あくまでぼくと囲碁との関わりの軌跡のなかの、いわば「表面」に過ぎない。

 

自分のことだから、嫌になるほどわかる。

行為の裏側にあった目的や、感情を深掘りすれば、自分に向けてそんな言葉は出てこない。

 

実際のところ、ぼくが囲碁を好きであるか問われれば、素直に「イエス」と答えることはとてもできない。

 

ここ半年ほどは対局も練習もしていない。小学生の頃に始めてから、ゆうに15年以上続けてきた囲碁から、今は意識的に距離を置いている。

 

というより、やってもあまり楽しくない→当然の帰結としてやらなくなっている

というのが正直なところだ。

 

もっと遡るなら、10代半ばで棋士になるのを諦めた時点で、囲碁という「競技」に対する情熱の大部分は冷めていたかもしれない。あるいは、もっと以前に。

 

それでも、アマチュアとして続けてきたのはなぜだろう?

 

それは、囲碁を通じた「人」との関わりが楽しかったからに他ならない。

 

囲碁の世界には、体育会系部活のような年齢による無条件の上下関係はなく、実力がある者には誰であろうと一定の敬意が払われる。

 

コミュニケーションが不得意で、他に特技もあまりなかったぼくは、大会で勝利して得られる他者からの承認、研究会などを通した他者との交流を求め、アマチュアとして囲碁を続けていた。

 

囲碁というゲームを追究し、「勝敗を競う」ためではなく。

囲碁に関わる「他者との交流」を目的として。

 

いわば囲碁という特技を、社会と関わるツールとして利用していたのだ。

 

別に、その姿勢が間違いだとはいわない。

 

競技の面白さと、それをプレーする人間の魅力の多寡は密接に関連する。

 

仲間とワイワイ真剣にやるからこそ楽しい、仲間が頑張っているから自分も思わず熱くなって取り組んでしまう。競技を通じた人との出会いが楽しい。

 

趣味に向かうモチベーションの割合の多くは「他者」が占める。

 

ぼくはこの点を長らく勘違いしていた。

 

話が混沌としてきたので、今回はこの辺で。

 

読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

 

初めまして。

初めまして、カイトと申します。

 

1記事目に「初めまして」と書いたところで、

このような場末ブログの自己紹介記事にグーグル検索でたどり着く人がいるはずはなく、

すなわちこの記事を読まれるような方は100%、別記事から遡って読んでくださっているのであり、

そんな方々に向かって「初めまして」もないのですが、なにぶん本記事が当ブログの1記事となりますので、便宜上、この挨拶を使うこととします。

 

改めて、初めまして。カイトです。

 

カイトことぼくは、アニメ、ロック、映画大好き20代男性です。

 

近頃は心理学や筋トレ、自己啓発なども深掘りして思考する楽しさを覚えてきており、生来の雑食性にさらなる磨きをかけているところです。

 

このブログは、そんな雑食性20代男が

日々を生きる中で得たささいな気づき、過去を振り返って思ったことを吐き出し、メモするための場所です。

 

はい、ただの思考メモです。それ以上の内容はございません。

 

匿名なのをいいことに(名指しの悪口・芸能ゴシップ以外の)毒がドロドロリンと垂れ流される日もあれば、とても気分よく過ごせた日の素晴らしい出来事を書き留めてみたり、ちょっとした本の感想なども書いたりするやもしれません。

 

つまり、何も決めてはおりませんのです。

 

さてどんなブログになるのか(思考メモとさっき書きましたね)、その前に10記事と続くのか、自分でも楽しみです。

 

読んでくださりありがとうございました。